私的空間

心に留めおきたいこと・自分への覚書

幻想だった「そのうち良くなる。」Mの発達障害に向き合うようになったきっかけ

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「自閉症スペクトラム」って何?

「自閉症スペクトラム」という言葉を初めて聞いたのは、アメリカ在住の友人が久しぶりに帰国し、ランチをした時で、かれこれ11年前のことだった。

当時、会社の上司宅に呼ばれた友人が目にした光景は、ひと時もじっとすることなく家の中をウロウロ動き回ったりする奇異な行動のティーンエージャーの息子さんだった。

アッパークラスのご両親はそれなりの役職につく人達だったけれど、臆することなく「この子はサポートが必要なADHD児で、療育中なの。薬を飲ませて落ち着かせてくるわ。」と教えられたとそうだ。

「今アメリカにはそんな自閉症の子がたくさんいるのよ。」

向こうの社会はいつも日本より、一歩も二歩も進んでいる。ちなみにこの友人と最近会った時には、LGBTを含むジェンダー別の新たな名称について教えてもらったのだが、全く覚えていない。

アメリカでその当時、最新の情報だった「自閉症児」のことは、不思議なものでずっと耳に残って仕方がなかった。

もちろんそれまでは自閉症について全く無知だった。何しろ自分が育ってきた時代は、まだ特別支援教育などとは程遠い時代で、周りから入ってくる情報がほとんどがなかった。これはごく普通の感覚で、親などの当事者以外には、今の時代においてもあまり知られていないと思う。

そしてその2年後、Mがその「自閉症スペクトラムに属する子供」と診断されることになったのだが、普通なら軽く聞き流していたような友人の話が、ずっと印象に残っていたことは、近い将来に起こることをまるで予見していたかのようだった。

結論からいうとMは「知的な遅れがある自閉症スペクトラム」ということなのだが、自閉症スペクトラムと一口に言っても、100人いたら100通りの特質があるような広義の障害のことだ。頭脳明晰な高機能自閉症もいれば、Mのような精神遅滞にもあてはまるなど、医師や専門家でない限り、詳しい定義は良くわからないし、難しい。

発達の見極めがつかなかった幼少期から小学校低学年まで

Mは大人しく温和な性格で、幼少期の言葉の遅れや、動作の鈍さなど目立つ特質がなく、3才児検診は問題がなかった。

ただ人と関わることを好まず、一人遊びで一日を過ごすような育てやすい子供だった。このあたりから母親として、多少心配し始めるようになった。

幼稚園、小学校1,2年でも指摘されることもなくすり抜けた。この時代は他の子も幼いので、判断がつきにくいと言った方がいいのかもしれない。先生に探りを入れるように様子を聞いても、「Mのような一人が好きな子は他にもいる。」などという答えが返ってくるだけだった。

Mにはいわゆる、友達という存在が5年生になるまで一人もいなかった。風変わりなところが多々あったのだけれども、集団生活にはそれなりに合わせることもできた。またゆっくりながら、読み書きや算数もついていけたので、親の方でもなかなか見極めがつかなかった。

友達や人と関わらないことについて言えば親の自分自身が幼少の頃大人しく、ほとんだしゃべらないタイプでった。小学校高学年の時に親友ができてから、だんだん人の輪に入っていくようになったこともあり、それほど心配ないと思っていた。

Mの障害に向き合うようになったきっかけ

Mの障害についてきちんと向き合うようになったのは、Mが小学校4年生の時だった。母親としてずっと気になっていたものの、「だましだまし過ごしているうちに、そのうち良くなる」とか、「成長するにしたがって、だんだん普通になることもあるかもしれない。」などという、はかない期待もあった。

そんなふうにモヤモヤとしながらもずっと封印していた思いは、ある日、Mの担任のベテランの先生に見事に破られることになる。

その頃は、いつも一人でいるMに対して、同級生からからかいが始まっていた時でもあり、先生とはそのことで何度も家庭訪問を受けていたにもかかわらず、自分の方からは発達について相談することはなかった。

先生の指導のおかげで、心配ないじめもなくなった二学期の懇談会、とうとうその日がやってきた。

「私からお母さんにお話したいことがあります。それは大変心苦しく、申し上げにくいのですが、実は気になっていることなのです。」

今でもその時の先生の心苦しそうな表情は鮮明に覚えているし、その時はさすがに世界が崩れ落ちるかというくらいショックだった。しかし後になって「あの時、あの先生に告げられなかったら、自分はその後どうしていただろう」と考えるほど、今ではその明察に感謝している。

「木を見て森を見ず」と言うように、親の自分が一番Mのことを知っている等の思い込みは、傲慢さ以外の何ものでもない。

第三者であり、教育の現場で長年多くの子供達を見てきた先生の目は鋭く、同時に慈愛に満ちていた。Mの将来のためを思って、複雑な思いを抱えつつ助言してくれたのだ。その後、先生が寝たきりの重度障害を持つお子さんがいると話して下さったことは、話の内容に深みを与えた。

満を持してやってきた内なる存在からの導き

このことをきっかけに、Mのことは一人で抱え込まず、心配ごとは相談機関や臨床心理士、学校の先生などに話すなど積極的に外へと、親として働きかけるようになった。

その頃はちょうど、国内でも特別支援教育法が制定され、いやゆる「気になる子」たちの存在の、受け入れ体制が整いはじめた時代だったので、Mにとって適切な対処方法があって本当によかったと思う。

2006年6月に成立した改正学校教育法では、「その他心身に故障のある者で、特殊学級において教育を行うことが適当なもの」が「その他教育上特別の支援を必要とする児童・生徒及び幼児」という文言に変わった。

さらに、学校教育法施行規則で、通常の学級において特別の教育課程によることができるものにLDやADHDが追加され、特別支援教育の対象に含まれるようになった。

特別支援教育 - Wikipedia

先が見えなかったり、情報や知識がないことほど怖いことはない。 自閉症や発達障害については、Mのこれからにしっかり向き合うためにも、自分なりに色々な講演を聞いたり、書籍等で調べまくった。

我が子の発達障害を疑ったことのある親なら、一度は読んだことがあるだろう杉山先生の『発達障害の子どもたち』から始まり、関連書籍を読むだけでなく、インターネットで地域の支援情報も探したり、見学にも行った。

以降、ドクターの診断やたくさんの相談機関を経て療育手帳を取得するまで、何かと時間がかかったのだが、中学校への進路を考えるにあたって、タイミング的によく間に合ったものだと思う。

子育てに携わる親御さんのブログなどで、生の声を拝読したり、とにかく我が子にとって将来の手立てとなることを血眼になって探したこともある。

人それぞれの特質や困り事には違いがあるものの、発達障害を持つ子の親としての切実な心情は共通だ。いつか自分の情報もアウトプットしなければという思いから、記事を公開することにした。

さて連続した人生の時間を振り返ると時々、「内なる存在」が(それを「神」という人もいるけれど)、現実世界の誰かに成り代わることで、あるべき方向へ導いてくれる時は何度もあった。あの時先生から告げられたという経験も、そのうちの一つだったと思う。

すべては最愛の我が子の今後の人生を、ずっと笑顔でいられるようなものにするためだった。

「今このときから、心して考えよ。」という風に、運命が満を持して母親である自分の背中を押した、Mの小学校4年生の秋だった。

発達障害の子どもたち (講談社現代新書)

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