スピリチュアル・アウェイクニングを目指す人のゴールが、「悟りをひらくこと」だとすれば、それに対するエイブラハムの教えは、少々拍子抜けするものかもしれない。
セミナー動画に質問で多いのが、誰かがある日を境に突如、変わったなどの体験談。「この時、何が起きていたのですか?」「悟りについて教えて下さい」
エイブラハム「そんなのどうでもいいことだ。あなたは今日が目覚めの日だという風に、啓示でも受けたいのかい?」という感じで、茶化すことさえある。
出典元:エイブラハム・ヒックスパブリケーションズ Abraham-Hicks Publications - Law of Attraction Official Site
誰でも今の自分を変えたい、変わりたいと心の底で思っている。
ある意識レベルに達したら心に平安が訪れてニュートラルになり、全ての制限から解放されるという「覚醒」に対する憧れみたいなものが、自分の中にもあった。
YouTubeでも「第三の眼」「覚醒します」などの、どぎついタイトル動画を見受けるけれど、スピリチュアル・ピープルにとって「悟り」は、それだけ魅力的なのだと思う。
エイブラハムが教える「悟り」とは
そんな期待に反するかのように、「悟り」に対するエイブラハムの答えは、
Enlightenment really is a state of practiced vibrations.
「悟りとは、波動の実践(練習)状態のことだ」
と、まるで素っ気ない。そしてそれは大学の学位のように、ある地点に達したからといって、一生有効というわけでないらしい。
The contentment is alignment that contentment is enlightenment.
The clarity is enlightenment that absence of resistance.
「心の平安とは悟りであり、アライメントだ」「抵抗のない澄みとおった心(明晰さ)が、悟りである」
*contentment: 満足(すること)充足感、心の安らぎ
ソースと同調しているかしてないかを、瞬時に区別し、思考をコントロールできる能力を保つことが重要。
私の言う調和とは、大学の単位のように、いったん成し遂げれば自分のものになるという類のものではない。 ある瞬間に調和した状態にあるかないか、それだけのことだ。by エイブラハム
*注:日本語翻訳本の「調和」は、当ブログでは「アライメント」としています
より引用つまり、どれだけ達観するようになっても、コントラストでの経験=修行が一生続くことを意味する。
悟りの境地に安住はないと、エイブラハムは教えているのだ。
最高のパフォーマンスをするテニス選手
別の動画で、エイブラハムはその波動の実践状態を、一流プロテニス選手の試合に例えて、こんな風に説明していた。
試合中、彼女は最高のパフォーマンスをすることに集中していて、概ね良いプレイをする。時には神がかったプレイをすることもあれば、うまくいかないこともある。
失点した時は悔しさのあまり、激しくラケットをコートに投げつける。けれどもすぐに気を取り直し、再び良いプレイをする。
試合中は、「最高のパフォーマンスをする」という思いの波動が優勢になっているので、少しネガティブに陥ったくらいで、試合に影響することはない。
ここで重要なのが、ラケットを投げつけるようなことがあっても、すぐに気持ちを切り替えてそこから回復し、試合に再び集中すること。
ミスに囚われたり、動揺して、試合を台無しにすることがないのが、プロの流儀だ。
アライメントしていても困難はやってくる
テニスプレーヤーの例が示すように、どれだけ波動を高く保っていても、様々な出来事が次から次へとやってくるのが、物質界での人の一生。
波動の実践状態について、エイブラハムは次のように述べていた。
「 自分で意識できているのだから、その状態は維持できる。訓練して手に入れた状態だから、それはもうあなたが獲得したものだ。もうあなたのものだ 」
出典:
先述のテニスプレーヤーでいうと、日頃の鍛錬が強さの秘訣だということになる。訓練していれば、そう簡単に能力が損なわれることはない。
エイブラハム:「けれども、たとえ最高の波動と調和しても、トラブルはあなたの目の前に降ってくる。 そこには、まだ対比するものがあるのだ。 だが、たとえ対比するものがあっても、あなたが今いる波動のディスクから降りることにはならないばかりか、トラブルはチャンスとなる」
ハプニングと選択の連続の人生では、多少の浮き沈みはついてまわる。
しかし、選択肢やコントラスト(対比)から生じる差異がなければ、自分の願望さえ気づくことができない。
それにエイブラハムは、「常にポジティブでいなくてはならない」と教えていない。感情に気を配り、意識していることこそが大切らしい。
ピンチはチャンス、と一般的にも言われるように、そこには大きなメリットも潜む。
「危機は自分の望みにフォーカスするという、良いきっかけなるのだ」と、コロナ禍のフォロワーに向けた動画で語っていた。
大切なのは「どう感じるか」で、自分の立ち位置に気づき、すぐにアライメントするよう波動修正すること。修練すればするほど上手になるとエイブラハムは説く。
悟りを開いた後の仏陀も悩んでいた?
ここで悟りについての過去記事から、印象的な引用を抜粋したい。
人間には生きている限り、迷いがついて回るものです。 生きるということは、さまざまな選択の連続ですから、不断に迷いが起こることは避けられません。
私もしょっちゅう迷っていますよ。
しかしですね、古い仏典を見ますと、 悟りを開いた後のお釈迦様に対してさえ、悪魔は何やかやと誘惑を続けていたとかいてあるのです。
一般には、お釈迦様はすべての誘惑を断ち切って悟りを開いたと思われがちですけど、 どうもそうではないらしい。
むしろ、一生の間、こころを悩ますこともあったようなのですが、 日々の暮らしにおいて、迷いながらも、絶えず反省をし、努力を続けるなかにこそ、 悟りはあるということなのではないでしょうか。
仏教インド思想の世界的権威中村元氏「生老病死の旅路」より
中村氏が述べたように、修行者が人生を生きる中、迷いつつも、たゆまぬ努力と研鑽を積む。そんな風に、少しづつ成長していく過程にこそ、悟りはあるのかもしれない。
ヒーラーやスピリチュアル・リーダーになるレベルの人ならともかく、凡人の自分のような者にとっての「悟り」とは、どうやらある日突然、意識が変容するような類のことではないようだ。
そうだとしたら逆にエイブラハム流の悟りが、身近でチャレンジしがいがあるように思えてくる。
最後に・人生という旅路で目指すべきゴール
「悟ったら全てから解放されて、困難な状況などなくなる」という、間違った思い込みはそろそろ捨てる時がきたようだ。
それでもやはり可能であれば、到達してみたい理想の境地がある。
エイブラハム:「 世界を「源ソース」の目で見る眺めほど、素晴らしいものはない。すべてが見渡せるこの波動の見晴らし台に立てば、世界の中でこれこそ最高と感じるものとだけ調和する」
転生を何度繰り返しても、目指すべきゴールは同じ。つまりそのことに気づく旅、そしてソースへ回帰する旅が人生なのだと思う。
悟りをひらくことが何の意味も成さなくなった今、そして今世でエイブラハムの教えを学べたことだけでも、この上なくありがたいことだと思う。そしてここに居ることに心から感謝している。