I am a daydreamer and a night thinker.
在るがままの自分を深く愛しなさい。
そして自分の内にある神に耳を傾けるのです。
その神は微妙な声で話しかけてきます。
それはフィーリングと呼ばれるものです。
フィーリングはあなたの真実を語り、覚醒への道を教えてくれるでしょう。
ラムサ聖なる預言
昨夜の気づきより
人はどこから生まれてどこへ行くのか。時間の流れとは。運命とは。なぜ生きる。
この普遍的なテーマを問う自分の元へ、答えらしき回答が、人生のそれぞれの各ステージで、その時の理解度に合わせて降りてくることがある。
昨夜、不意にあるフィーリングが湧き起こった。
よく眠れなかったほどのその内容を、興奮さめやらぬ内に書き留めておこうと思う。
時間と空間と人生の関係性についてはバシャールやエイブラハム、スピリチュアルから明確な答えが得られないので、これまで自分の中で悶々としていた課題だ。。
ある人にとっては私の今回の気づきは不真実でもある。真実とはその人がそうであると信じたことにすぎない。
そういう意味で私にとって量子力学論の常識的にはぶっ飛ぶような仮説に、ヒントを得ることが多い気がする。
「人の一生は・・・
最初と最後だけ決まっている」
という仮説を知った時はなんだかワクワクした。
難解な科学的根拠など知る由もないけれど、直感的になんとなくこれだという気がしたからだ。「モーガン・フリーマン時空を超えて」で登場したある量子力学者の一つの仮説。
そして「生まれてから死ぬまでの一生というのは、同一時間軸で同時進行している」的な、別の量子力学の仮説にも同じ風に感じていた。
それこそがパラレルワールド。
未来から過去へ向かっている
普通は「時間は過去から未来へ向かっている」と考えるのが当たり前だけれど、昨夜の私の気づきはそれが全く正反対だというものだった。
「未来から遡って、過去が作られている。」
時間の流れが逆向きということだ。
例の番組でこれを説く量子力学論者がいて、その時は学説的に一体どういう意味なのかさっぱり理解できなかった。
過去というのは、すでに終わった経験と今この瞬間までのことになる。
時間というのは大きな連続性の集合体でもあるのだけれど、断片的には「今この瞬間」の一コマの集まりが形となったもの。
有限ではなく無限・・・。何次元にもわたって自分のいる空間が開かれているようだ。
時間軸が同一で、経験している全ての現実は同時進行で起こっている。つまり最初から最後まで「今この瞬間」の連続だということだ。
例えば生まれてすぐのまだおくるみに包まれて眠っている赤ん坊の私もも、大人になることに憧れを頂いていた中学生の私も、航空会社勤務のため某国に住んでいた頃の自分も、インドで占いをみてもらった時の自分も、新しい家族を持った自分も、賢者に預言された最期のシーンまでどう生きるべきか考える今の自分も、実はすべて「今この瞬間」という連続性の中で、同一空間に同時進行でその時々の経験をしている自分と同一人物ということだ。
パラレルワールドに在る自分。
そう思うとロマンを感じるし、いつの時代も「そこ」にいた(いる)自分の存在が愛おしくて仕方がない。幸福の絶頂にいたあの頃の自分も、今も「いる」。「在る」。もちろん絶不調のときも同様に。どの瞬間も。
結局私は、「思考の先端」という、内側(外側)に開かれた仮想現実空間の幻を見ているだけらしい。
人は生まれて来る前、自分がまだ学んでいない感情を学ぶためにどんな人生を修行の場にするかを大方決めて、自ら選んで生まれてくる、と言ったのはラムサだった。
その生が終わるまでに修行を終えなければならないので、人生の各ステージで内なる存在から答えに気づくよう迫られるらしい。それは様々な人生状況を通じてだ。
もちろん、意識のそれぞれステージが違うともいう。何万回も生まれてくる人もいれば、ずっと無意識の世界で眠り続けて修行の場へ行こうとしない人もいる。
生老病死や数知れないほど試練が待ち受けていると分かっているのに、なぜ魂の旅を繰り返すのか・・・。
それはやはりこの仮想現実の場が楽しくて楽しくて仕方がないところだからという。
この現実は未来への伏線
昨夜の気づきのまとめ。
全ての出来事が同時進行で起こっているとも言えるし、過去から未来は作られていて、最初と最後は決まっている。
だから今この人生で起きていることに一喜一憂するのはとてもナンセンスだということにもなる。
必ず「そこ」へたどり着くのだから、無駄な抵抗はせずただ流れに身を任せて悠々と生きることが良策だと悟った。
流されず、縛られず心の赴くままにが理想。
もちろんそこには「現実」という空間が開かれているのだけれど、それははとりとめもない仮想の現実に等しい。
けれども仮想の現実空間に存在しなければ、何も経験することができないし、楽しみもない。
だから人としての喜怒哀楽を表現して味わいたいために、コントラストに満ちたこの空間に身体を有して存在している。
個々に来た理由は特にないのだけれど、もしあるとすれば「ただそうしたいから・・・。」
今の状況は、未来の結果から来ているだけなので、ジタバタしても全く意味をなさない。たとえ今苦しいことがあっても、それは未来の出来事のために必然的に起きていることに過ぎず、あるがままそれを受け入れるべきなのだ。
映画やドラマの脚本でいうなら日々の出来事は「伏線」。
またスティーブ・ジョブズ氏が言った「点と線」とも言える。
それぞれに起こるべく何らかの理由があってすべてが、それらがものの見事に繋がっているのだ。
今感じているこの惨めさは自分が感じたかっただけ、一見困難に思える状況も、「すでに解決している」とその先を予測すると安心できる。
逆に「ああ踊らされているな、今。」と、起きた波風が通り過ぎるのを笑い飛ばせるようにもなった。そんな時はただ傍観するだけでいい。
自由意志の存在
ただし「最初と最後以外は、自由意志で軌道調整できる」というのも、真実のような気がする。全て自分で人生ビュッフェから好みの料理を選んでいるのだ。
このことに気づいた今、自分の人生の台本は、その都度好きなように書き換えてきたとわかった。あれもこれもそうなるべく起こっていたのだし、好みの味でなかったから、その都度好きなように変えきてた。
道中ガタガタと、レールから外れそうになったことも多々あったけれど、内なる声のフィーリングが慈悲深く「そっちの方向ではない」と、いつもそれとははっきりわからない形で示唆してくれてきた。
人生に無駄なことは一つもないとはよく言われる。現在が過去から来ているのではなく、未来から来ているのだと知れば、それを理解するのはたやすい。無駄なこととは、必要不可欠なことと同じ意味になる。
今この瞬間、自分の心の中にある「寺院」に、ひれ伏して涙したいほど感動しているし、生かされていることに対し、ただた感謝している自分がいる。