「右か左か」「AかBか」「行く、行かない」。そんな風に進むべき道を迷ったことはないだろうか。
エイブラハムは、「アライメントしていると内なる存在が導く」と語る。
そうだとすれば、悩む必要などないように思える。にもかかわらず、どっちを選べばいいか立ち往生してしまうのはなぜか。
あるセミナーで紹介されたのは、フェニックスの街でのかくれんぼのエピソード。
広大な都市のどこかに隠れた友人を、エスターとジェリーが「エイブラハムの導き」だけを頼りに探しに行くというものだった。
果たして、内なる存在からのインスピレーションは、本当に友人を見つける手がかりになるのだろうか。
次に語られた展開は驚きの内容だった。

- フェニックスのかくれんぼ実験ーエスターが憤慨した夜
- 内なる存在の導きは地図ではなく「流れ」
- 曖昧でいいー「どっちつかず」は安心のサイン?
- 学びのポイントー 今回の体験から得たこと
- 最後に・イージーゴーイングでいい
フェニックスのかくれんぼ実験ーエスターが憤慨した夜
それはまるで寓話のような一夜の出来事だった。舞台はアメリカ・アリゾナ州のフェニックス。
四方に50マイルも広がる大都市で、友人たちがどこかに隠れ、エスターとジェリーが「エイブラハムの導き」だけを頼りに、探しに行くというゲームが始まった。
ルールはただ一つ。どんなに時間がかかっても、必ず見つけるまで諦めないこと。
地図も手がかりもなく、頼れるのはエイブラハムから届くインスピレーションだけだった。
ところが、エスターが受け取る感覚は「そっちへ行け」と「そっちへ行くな」が同じように感じられたのだ。
まるでYESとNOが区別できないような曖昧なサイン。
ジェリーはハンドルを握り、エスターの身振りに従って街を走り回るが、友人の姿は一向に見えない。
夜のフェニックスを走り回り、ガソリンを三度も満タンにしながら探し続けた末に、二人はようやく友人を見つけることができた。
ところが、そこで待っていたのは意外な話だった。友人たちもまた「内なる存在に導かれて移動していた」と語ったのだ。
つまり、探す側も隠れる側も、同時に動いていた。
エスターは思わず憤慨した。「こんな馬鹿げたゲームは二度としないわ!」と。
確かに、右へ左へと振り回され続けた夜は、理解不能で途方もない体験だった。
しかしその中にこそ、導きの本当の性質ーー曖昧さは失敗ではなく、常に修正される流れという深遠なエイブラハムの教えが隠されていた。
内なる存在の導きは地図ではなく「流れ」
このエピソードが示唆しているのは、導きの性質そのものだった。
例えば私たちはつい、「内なる存在からのインスピレーションは、YESかNOかで答えてくれるもの」と思いがちだ。
右か左か、行くか行かないか。けれど実際には、導きはそんな単純な答え方をしないらしい。
エスターが感じた「行け」と「行くな」が同じように響く感覚は、その象徴だと思う。
つまり内なる存在は未来の一点を示すのではなく、今の自分に合った次の一歩を示していたということ。
だからサインは、はっきりした地図のようには届かず、曖昧に感じられたようだ。
しかも現実は常に動いている。友人たちも彼ら自身の内なる存在に導かれて移動していた。
指示は「静止した正解」ではなく、「動き続ける流れ」に合わせて変わっていったために時間を要した。
つまり、導きとは地図ではなく、川の流れのようなものだと、エイブラハムは伝えたかったようだ。
この視点に立つと、曖昧さは欠点ではなく自然なことだと分かる。
内なる存在はいつも、「今の自分に一番役立つサイン」を与えてくれると言う。
だから方向の正解を探す必要はない。
「遊び心と軽やかさで進めば、時間がかかっても必ず目的にたどり着く」と、エイブラハムは教えていた。
曖昧でいいー「どっちつかず」は安心のサイン?
私たちは普段、物事を「正解か不正解か」「YESかNOか」で理解しようとする。学校教育も社会の仕組みも、二分法で判断することに慣れているからだ。
それだけに、「どちらでも間違いはない」という教えは到底、理解不能のように思える。
しかし、フェニックスのかくれんぼのエピソードは、その二分法を超える視点を示していた。
エスターが感じた「行け」と「行くな」が同じように響いたのは、導きが不完全だったからではない。
むしろそれは、曖昧さそのものが合理的で、自然だということを体験させるためだったようだ。
内なる存在の導きは、はっきりしたYES/NOの答えではなく、今の自分に合った方向性を示すーー。だから「どっちつかず」に感じられた。
けれどもエイブラハムは、その曖昧さは、私たちが「正解探し」にこだわる思考から離れ、もっと柔らかく流れに乗るためのきっかけになる、と言いたかったのかもしれない。
つまり「どっちつかずのサイン」は、不親切でも不完全でもなく、どちらを選んでも修正されるから安心していいというメッセージなのだ。

学びのポイントー 今回の体験から得たこと
フェニックスのかくれんぼの話は、単なる奇妙なゲームではなく、私たちが「導きの本当の性質」を、体感として理解するためのものだったようだ。
そこから得られる学びを整理すると、次のようになる。
・方向の正解を探す必要はない
内なる存在は「未来の一点」を示すのではなく、「今の自分に合った次の一歩」を示している。だから正解探しにこだわる必要はない。
・内なる存在は常に最適な導きを与えている
曖昧に感じられるサインも、実はその時点で最も役立つインスピレーション。どちらを選んでも修正される流れの中にある。
・遊び心と軽やかさで進めば目的に到達する
迷ったときは「どちらが軽やかに感じるか」で選ぶ。時間がかかっても、最終的には必ず目的にたどり着く。
・どっちつかずな指示は失敗ではない
むしろ「動的な現実に合わせて常に修正される導きの性質」を含む。曖昧さは安心のサインと捉える。
このように整理すると、今回のエイブラハムの教えは、「曖昧さを恐れず、安心して受け入れる」ことを伝えていたと理解することができる。
最後に・イージーゴーイングでいい
びっくり仰天のフェニックスのかくれんぼ実験ーー。そこに示された深遠な教えは日常生活にも応用できる気がする。
例えば私たちは、日々の選択で「どちらが正解か」と常に迷う。それなのに内なる存在からのサインは必ずしもYES/NOの形では届かない。
筆者もキネシオロジーやオーリング、ダウンジングを試みたことがある。
筋肉反射や振り子の動きで「YESかNOか」を確かめようとしても、反応はいつも曖昧で、どっちつかずに感じた。
その精度にがっかりすることもあったが、この教えを聴いてから、「どちらにでも進める」という自由の証だったと思えるようになった。
その曖昧さは、「選択肢が複数あっても大丈夫」というサインなのだ。
エイブラハムは別の動画でこんな風にも語っている。
「内なる存在は右か左か、いちいち指図はしない。なぜならそこは、あなたの舞台だからだ」と。
選択の自由は常に私たち自身に委ねられているということだ。
右に進むか左に進むか、挑戦するか見送るか、あの人と一緒か一人で歩むかーー。
人生には「この選択がすべてを決めてしまう…」というような、思わず深刻に考えてしまいそうな場面がいくつも訪れる。
けれども、エイブラハムが伝えるアライメントの道は、その必死さをもっとも好まない。
つまり、「どちらを選んでも結果オーライ」と思えるような軽やかさこそが、鍵と言うのだ。
だから次に迷ったときは、「どちらが軽やかに感じるか」で選んでみること。
私たちはイージー・ゴーイングでいていい。時間がかかっても、必ず目的地へと導かれるのだからーー。
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最後までお読みいただきありがとうございました。
出典元:エイブラハム・ヒックスパブリケーションズ
Abraham-Hicks Publications - Law of Attraction Official Site