天才バカボンのパパの「これでいいのだ。」
バカボンのパパ的「これでいいのだ。」
子供の頃、何の気なしにお茶の間で見ていた『天才バカボン』のパパのあのセリフに、今更ながら深い感銘を覚える。
「これでいいのだ。」
これほど単純明快に「在る」を表す表現はないように思う。
ニュートラル、中立であること。価値判断の基準のないこと。悟りの境地。内なる存在と共にある時。
奇人変人で、神がかった天才アーティストというイメージだった赤塚不二夫氏の意図は、その名セリフの中に隠されていたようだ。
昭和を生きた人なら意識せずとも、心に刷り込まれた言葉でもある。その深いメッセージ性に、大人になってからでも気づくことができた人はラッキーだと思う。
日経新聞に載っていたコラムが印象的だったので記しておく。
没法子「しかたがない」の赤塚氏流解釈だった
「僕はものすごい恥ずかしがり屋なの。しらふじゃあなたの顔もまともに見られない。」
( 省略)
おそ松くん、天才バカボンといったギャグマンガの数々は、スタッフらと「バカを競い合うように」飲み、描いてきた。その結果、少女マンガでも傑作を生んだ細かな線を引く力を奪われ、「婦人科以外のすべての病」を得る。それでもこの道しか、このやり方しかなかったのだ。そんな達観と満足感をたたえた笑顔に思えた。
悲しみも不条理もすべてを受け入れる「これでいいのだ。」
赤塚さんは旧満州で生まれ育った。敗戦の混乱の中、母親に手を引かれての引き上げが原体験となる。幼い胸に刻み込んだ言葉は「没法子」(メイファーズ)。中国語で「しかたがない」の意味だが、それはあきらめ、投げ出すことではない。悲しみも不条理もすべてを受け入れ、その上で前へ進む。そう受け止めた。
会いたい人と会ってはいけない。行きたいところへ行ってはならない。私達も今、不条理のさなかにある。災いがすぐには去らない以上は、倦まず弛まず明日へ向かうしかない。そう念じれば少しは気持ちが軽くなるだろうか。赤塚さんは没法子を自分流に訳して、バカボンのパパに言わせ続けた。「これでいいのだ。」
2020年4月29日の日経新聞「春秋」より引用
多くの人にとって厳しさが増し、どうにもならない状況に、やるせない思いを抱えるような時期ではある。
明けない夜はない、降り止まぬ雨はない。
現状を嘆くより、ただ起きていることを静かに気づき、あるがままにまかせよう。
Let it flow.
「これでいいのだ。」理由などない。
悲しみも不条理も、安寧も幸福も、いかなる時も、すべてを平坦に受け入れ、その上で前へ進もう。
とにかく「これでいいのだ。」