私的空間

心に留めおきたいこと・自分への覚書

友達ゼロはいけないこと?人との関わりが苦手な子が学校生活で「ぼっち」を宣告されるあの日

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「どうやったら友達ってできるの?」

人との関わりが苦手な自閉症児や発達障害を持つ子の親御さんなら、そういう質問に答えたことが、一度や二度はあるのかもしれない。

「友達ってどうやったらできるの?」 Mが小学校の時の話になる。

「友達というのはね、自然になるもので無理に作るものでないの。」などという曖昧な諭し方は到底、軽度の知的な遅れがあるMの理解の範囲を超えていた。

そもそも友達を欲しいと思った時点でいないということは、すでに友達作りのタイミングを逃していることを意味する。

こんな時の私の心の声はこうだった。

「Mが友達を、本心から欲しがってないからだと思う。」

友達や周りに関心がない自閉っ子

元来、Mは自分の世界に浸るのが好きだ。だから基本的に他人に対して関心がない。それが自閉症スペクトラム障害と言われる一つの特質でもある。

例えば同級生が何に興味を持って何が好きで、どこに住んでいるかなど全く興味がない。それに話す内容が幼いこと以外に、相手を知らないことも話が噛み合わない原因になり、合わせようともしない。

共感性の欠如から、会話も単調になりがちだ。自分が関心あることを一方的に話すことが多く、相手の話をあまり聞かないので、当然一緒にいて面白みがないので避けられる。

親はもちろん、先生や周りの大人はMの話に耳を傾けてくれるけれど、子供はそうはいかない。

Mがもし自分以外に目を向けて、クラスメートの誰かに興味さえ持てば、「誰かと一緒にいるのは楽しそうだな」とか、一人ぼっちで浮いている自分に気づき、無理にでも輪に入ろうとするのだと思う。

けれども本来、Mにとっては彼らの存在はあまり興味のないことなのだ。

学校生活で友達ゼロを宣告される「あの日」

Mには軽度の知的な遅れがある自閉症スペクトラム児なのだが、小中学校は公立校普通級に通った。判定は小学校4年生の時、その前後でMはいつも一人浮いていてた。

「友達ってどうやったらできるの?」と泣きつかれた時は、具体的な答えに閉口した。

例えばクラス替えした教室で、一瞬にして仲良くなったり、互いに関心を持ち合うなど自然発生的に「一緒に遊ぼう」となったりする。それが人間関係とかコミュニケーションの原則で、言葉ではなかなか道理を説明できるものではない気がする。

幼少期から一人を好むMは、コミュニケーションの基礎をスルーし、それなりの経験を積んでこなかった。

学校生活ではそれぞれ気があった者同士で、独自の棲み分けとグループができていくのものだが、どうしてもはじかれてしまうのはMのようなコミュニケーションが苦手な子供なのだろう。

そんな中、友達が全くいないことを思い知らされるのは、行事や修学旅行などの部屋決めなどのグループ分けの日だった。それはまさに友達の絆が試される日でもあり、正直なところ、この日だけは親も子も切ない思いにかられた。

「僕はK君と一緒になりたかったのに、ダメって言われた。くやしい。」

K君は優等生タイプのクラスメートで、唯一Mとちょっとした会話を交わしてくれる子だった。当然別に仲良しの子がいるので相手にされないのも仕方がない。それでも正直「優しそうに見えたのに冷たいな。」などと大人気ないほど、親の私でさえ愚痴をこぼしたものだ。

そして担任の先生から、人数に空きがあるグループに「M君を入れてくれない?」と打診してもらうことになる。拒否するグループもあると聞いたとき、さすがに親としても辛く、何か原因があるのかと先生に尋ねても、「M自身に問題があるわけでなく、仲良しだけで固めたいから。」との状況を伝えられた。

相手は子供だ。言われてみれば仲良しメンバー以外を、受け入れるのに抵抗があるのも無理はない。

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友達がいないことはいけないことなのか?

一番悲しがっているのは誰?

当時は「友達がいない学校生活は寂しくないのか」という親心から、参観日や行事などでポツンとしている我が子を見ては、同級生と比べて思い悩んだものだ。当の本人は至って堂々としていたのにかかわらず・・・。

振り返ってみれば「友達がいなくて可哀想」と悲しい気分になったのは、実は親の方だったかもしれない。

Mの場合は、その日に限っていえば「誰も僕と仲良くしてくれない」という嘆きが心を乱すものの、涙を流していたかと思えば、数時間後にはケロッとして好きなことを始めるが常だった。それはあたかも神から与えられた「情緒の遅れ」というヴェールが、嫌な思いを引きずらないために図らったかのようだった。

実際、友達ゼロでもM自身は平気な様子で、一度聞いてみたことがあるが、自分はK君もJ君とも仲良しだと言い張る。挨拶を交わす程度でも、彼らはMの範疇では十分友達なのだ。神のヴェールが一人ぼっちの意味をMに考えさせなかった。

風変わりでも大人しく害がないせいか、いい意味で同級生は放っておいてくれた。M自身、学校に行きたくないと言った日が、一度もなかったのは救いだ。

学校生活では、確かに友達との関わりが子供の成長に欠かせないかもしれない。けれど大多数に限ってはそうであっても、自閉症児や知的な遅れのない発達障害児にとっては苦痛にもなり得る。

クラスでひとりぼっちは敗北でない

そもそも年に数回あるかないかのグループ決めの日以外に、友達ゼロが悲しくなることはそれほどない。友達がいない=孤独でもないし、友達ゼロという事実がその子の人間性に優劣をつけるわけでもなく、敗北でもない。そしてその後の人生に大きく影響することもないと思う。

失ってきた部分もあったのかもしれないが、生きていく上での最低限のマナーややコミュニケーションは、親密な友達関係以外からも自然に身につけてこれた。

人はその時の環境によって常に変わリゆくものだし、大人になってから友達関係ができる人もいれば、逆に友達付き合いから離れる人もいる。結婚式の準備の段階で、新郎側の友人が一人もいないことに気づいた友人がいたが、健常者でも案外そんな人も少なくない。

ニュアンスが少し違うけれども、今風に言えば「ぼっち」は世にすでに受け入れられている。私自身、「友達と仲良くする=健全」そんなステレオタイプな先入観や偏見はとっくの昔に捨て去った。

今後の人生に大切なもの

何事も深刻に考えるなど、面倒くさい普通の人の習癖をMは生まれつき知らない。そんなことは人生を楽しいものするために必要のないことだ。

私達はよく、その日に起こった出来事、とくに不快な感情を反芻しては、また悲しい気持ちになるなど本当に無駄なことを繰り返す。引きずるからますます辛くなるのだ。

日々、良いことも悪いことも何かしら起こるのが人生というもの。一喜一憂せず、縛られず、単純明快に生きていく。そんな人生で大切なことを親の私に日々教えてくれるのがMなのだ。そのことにはいつも感謝せざるを得ないし、自身の未熟さに謙虚になろうと思わせられる。

「友達はいてもいいし、いなくてもいい。」

Mが成長した今なら、そう言える気がする。友達がいないことなど、取るに足りないことだったと思う。学校生活での集団行動や友達関係に悩む時期は考えてみれば、長い人生のうちで十数年程度。「今この瞬間」、そして今後、どう過ごすかの方がよっぽど大事なのだ。

社会人となったMはあれから随分成長したけれど、根本的な特質はほとんど変わらない。実は自然と友達もでき、休みの日に映画を見たりするなどの一定の付き合いをしている。

物事の道理がそうであるように、友達作りも「なりたいようにはならないが、なるようにはなる」ようだ。