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私とTM瞑想・マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの教えから瞑想の重要性を読み解く

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瞑想再び

『ホモ・デウス』などのベストセラーで知られる天才歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏は、著書『21Lessons~』の最終章で、「瞑想」の持つパワーのことを「将来人類が、神のような存在になったAIに対抗するための補完となりうる可能性もある」と述べるなど、まるで謎解きのような見解を示した。

これに違和感を持つ一般の人にとっては、いまだに「瞑想」とは非科学的で、神秘主義の何かくらいに考える人が多いのかもしれない。

現在・過去・未来への鋭い洞察眼を持つハラリ氏は、「ヴィパッサナー瞑想を一日に2時間行っているおかげで、あのような大作を書き上げることができた」語っている。

瞑想をする意味とは、最近の流行りのマインドフルネスで言われているような効果以上のものであるに違いない。

一般的には瞑想を、まるでヨガと同じように扱い、リラックス効果があるとか、心身を健康に保つといった、ごく表面的な捉え方があるようだ。

瞑想には、もっと深淵で奥深い意味合いがあるらしい。

世界に影響力を持つハラリ氏が、瞑想を一日一時間を2回にかけて行うほど瞑想そのものには、かなりの重要性があるのだと思う。

ステイホーム中に、ふと思いついてエックハルト・トールの『ニュー・アース』を読んで、なかなか埋まらなかったアウェイクニングのパズルの一片が見事にはまり、外側から内側へと自分の中の気づきが進んだ。

そして、ずいぶんしばらくしていなかった瞑想を、「再開すべき」と内々から衝動が沸き起こり、導かれるように瞑想を始めた。

瞑想するひとときは、大切な時間となっていている。

「気づき」が浅い頃の瞑想

実は瞑想のやり方は、20年ほど前にマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの「超越瞑想」、通称「TM瞑想」超越瞑想のセミナーで教わった。

当時の日本は自己啓発ブームで、センターでは能力開発セミナー的に人集めをしていたように記憶するが、インド好きの会社の先輩と「リラックス効果があればいい」程度に受講した。

「TM瞑想は極めて科学的、多くの企業が研修などにも取り入れている」、「誰でも簡単に瞑想テクニックを学べる」のような触れ込みだった。

今となっては、その深い意味を知らぬまま、その世界に足を突っ込もうとしていたあの頃の自分が、少し誇らしく思える。

現在のように瞑想そのものが、まだそれほど認知されていなかった頃の話だ。

講師はマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーセンターで教育を受けたスーツを着た日本人で、インド人のグルやヨギが教えるわけでないのは、主催者の戦略だったと思う。

今から思えば講師達は、マハリシの智慧を極めようとしていた人たちで、中には超越している人もいたのだろう。

TM瞑想法とは一回20分、朝夕の2回、座禅の姿勢でなく、楽な姿勢で椅子に座ってするもので、講師から授かったマントラ(聖句)を用いて黙想していくというメソッドで、老若男女誰でもできるもの。

伝授された通り、一日の朝夕に瞑想を行うことを数年は続けていた。その後コースを延長することもできたが、当時はそこまで入れ込んでいなかったので、さわりだけ教わって終わった。

瞑想なしの「失われた20年」

いつから瞑想をしていなかっただろう。

例え気づきがまだ浅くても、また瞑想の真意がわかっていなくても、瞑想には「ある一定の効果」がもたらされるのかもしれない。

インドで出会った賢者は当時、私が瞑想を実践していることを見抜いた。椅子に座ってではなく、結跏趺坐の姿勢で行うように言われたのを覚えている。

かれこれ20年も前のある時期、気付きが浅いながらも、実践していた瞑想によって、得られた最大の恩恵は、振り返ってみれば今の伴侶との出会いだったようだ。

あの時は本当にまるで、ミラクルとしか言いようがない縁がもたらされた。内なる存在が、完璧で間違いの微塵も感じられないほど、望んでいた人とめぐり逢わせてくれた。

インドの賢者に透視された人物ではなかったが、そのご縁は自由意志の為せる技なのだろう。

その後はほどなくして、多忙さゆえに瞑想をする時間さえなくなってしまった。子供を授かったくらいから、自分の意識は外側のみにそそがれ、瞑想の重要性を置き去りにしたまま、物質世界の波にどっぷりと沈み、自分を見失うこと20年・・・。

小波、大波にさまよい浮く表面的な出来事に一喜一憂し、苦悩が多かった。

もしあのまま瞑想を続けていたら子育てでも、もっと大きな視点で物事を見れる人になれたかもしれず、また「いっそこの世から消え去りたい」などと、自分を見失う日々もなかったかもしれない。

そういう意味で瞑想しない時期は、自分の中の「失われた20年」と言える。それもこれも内なる存在が与えた、また今生でプログラミングされた試練期間だったということなのだろう。

5000年前に解明されていた究極の真実

何かと騒がしかった2020年、エネルギーフィールドのパワーが上昇気流に入ったとスピリチュアル界はいう。

その影響もあってなのかエックハルト・トールへの教えに導かれ、『ニュー・アース』のエゴの解体とペインボディの解釈により、自分の「気づき」がぐんと進んだ。

今の自分の気づきのレベルで理解できている範囲内で、「瞑想」の重要性について書き留めておこうと思う。

TM瞑想のマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの本は、瞑想の重要性に対するヒントが満載なのだ。

その際に購入したか、またはセミナーで配布された「超越瞑想入門・存在の科学と生きる技術」マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー著を20年ぶりに読み直してまさに「ぶっ飛んだ」。

理解の浅かった頃の自分はその部分を、難解過ぎるあまり、ほとんど読み飛ばしていた。

新訳 超越瞑想入門―存在の科学と生きる技術

今、量子力学などの科学者が一生をかけて取り組む、物質エネルギーの最も精妙な層についての答えについては、古代インドのヴェーダですでに解き明かしていたという。最近では物理学者達の世界観はブッダと同じで、東洋の宗教を解明し始めているとも聞く。

色々調べると、どうやらマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーは、大聖スワミ・ブラーマナンダ・サラスヴァティ師の知識を、世界中に広めた伝道者ということらしい。ビートルズのメンバーに教えたことで一気にその名が知られた。

将来的に科学の究極の境界が「存在 Being」であると究明するまでどれだけ時間がかかるかわかりませんが、人間はその実存の真実を直接経験することができないような状態にとどまってはいけません。なぜならこの「存在」こそがまさに生命の基盤であり、これを実現することによって生命のあらゆる面を栄光化できるのです。」

気の毒なのが、ヴェーダの真理と叡智を受け継いだ聖なるリシ(賢者)の智慧が記されているのにも関わらず、アマゾンで本の中古品が安売りされていること。自分が主催者なら一冊残らず、マハリシの名誉のために買い取るけれど・・・。

恐らく20年前の自分のように、セミナーを受講したにも関わらず、または企業研修などで、TM瞑想の真意とその価値が全く理解されずに投げ売りされたのかもしれない。あるいは単に古さゆえなのか。

読み直すにつれ、当時の自分を振り返っては、あの頃は瞑想をただ「わかったようなふりをして」実践していただけだったなあとつくづく思う。

真の理解などとは程遠いものだったに違いないのだが、その時の自分のステージには「そうあること」が必要だったのだと思う。

相対領域にあるすべてのものの最も精妙な層の下に、抽象的で絶対的な純粋「存在」の領域があります。それは内側に隠れている超越的な領域です。

マハリシがTM瞑想 "Transcendental Meditation"と呼ぶ由来は"transcendental"「超越する」にあるため、略してTM瞑想や超越瞑想と呼ばれる。

それは物質でもエネルギーでもありません。この純粋な実存の状態が宇宙万物の根底にあり、それ自身を外側に現して宇宙万物の様々な生物や物質となるのです。

being「存在」とは永遠不滅の究極の真実、真我、ブラフマン、ハイヤーセルフ、至高意識、源ソース、純粋意識、高次の存在、内なる神、そして「いま在ること」の意味だ。

最近の動画でエイブラハムは ”inner being”と、エックハルト・トールは” Deep I”と言う風に、わかりやすく伝えるためにそう呼んでいる。

そのことについて古代インドのウパニシャッド哲学では

我は「それ」なり

汝は「それ」なり

これはすべては「それ」なり

ただ「それ」あるのみ

ほかはみなあることなし

のように、究極の真実は「存在」であると、インド思想の最も古い記録に残っている。

蛇足ながらこの本のタイトルの日本語訳、 "The science of being and art of living" 『存在の科学と生きる技術』 の"being"の「存在」に違和感を感じる。この言葉以外にもっと読者に伝わりやすい表現はなかったのかと。この訳のために、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの崇高な教えをわかりにくくしている気がしてならない。

科学者で賢者のマハリシが説く瞑想の本当の効果

『超越瞑想入門・存在の科学と生きる技術』によると、TM瞑想を実践することでこんな利があるとしている。

* 瞑想で「内なる存在」の栄光を直接経験すると、誰でも自分の中の「究極の真実」を認識することが可能

詳しく言えば、このような説明になる。

  • 瞑想によって想念の精妙な状態を経験することで、心の経験を最も精妙な限界へと系統的に導くことができる

  • 瞑想をすると相対界の最も精妙な経験を超越して「究極者」の領域に到達することができる

つまり瞑想は「存在」を究極の真実として、直接経験できる「悟りへの道」であり、この実際的な方法によって、生命のあらゆる面が輝かしいものとなり、大いなる恐怖から開放されるということになる。

『ホモ・デウス』などを読めば、近未来に起こりうる人工知能の謀略の可能性に対して、自分のような知識のない者でさえ恐怖感を覚える。

ユヴァル・ノア・ハラリ氏ほどの頭脳と洞察力を持つ人なら、知っている分だけ、内的アラートの度合いが相当なものなのだろう。

真の究極者になるために、またこの世界での恐怖を乗り越え、体内感覚を整えつつ深い気付きで「超越」するために、日々2時間もの瞑想を実践しているのかもしれない。

「心の平安、身体の健康、透徹した知性、疲れを知らぬエネルギーが湧き出る至高の瞑想法・TM瞑想でここまで自分が変わる」とは、この本の帯にあるキャッチコピーはかなり魅力的だ。

けれどそれは、セミナー受講生を集めるための表面的な謳い文句にすぎない。

20年前の自分がそうであったように、この種の「スピリチュアルご利益系」の謳い文句で釣らない限り、一般ピープルは興味をさえ持ってくれないのだろう。

反面、気づきを真摯に求めない人にはほとんだ無用の長物ではないか。

このあたりはself empowerment 、自分自身で、自分が持つパワーを発見したいと思う人にしか意味がないのだ。

つまりご利益系などで収まらないほどの究極の瞑想の極意とは何なのか。

人として生きる上で内側と外側のフローにどのような影響がもたらされるのか。

『引き寄せの法則』のエイブラハムも瞑想の重要性を力説していて、それこそが最速でアライメントする方法と教えている。

今はTM瞑想はやめて、エイブラハムの教え通りのスタイルで行っている。

瞑想なしにアウェイクニングは語れない。 かくも深い瞑想については、機会があれば別記事で書きたい。