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私的空間

DVDのタイトルは『私』 自分への覚書

メメントモリ⑦数年越しの宿題

メメントモリ

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大人の一言が子供に与える影響

 

 

生まれてまもないころは純粋な神秘性のかたまりなのに、成長するにつれ親や学校、周囲から「こうあるべき、良い子になれ、勉強しろ、スポーツもやれ、優秀かそうでないかでレベル分けされるのがこの世の宿命です。

 

そんな社会的プログラミングをされるうちに、人はだんだん本来の純粋さや本当の自分を忘れ去り、ただ現実的になっていくのだと思います。

 

 

成果主義・競争社会の集団生活をするにつれ、そんな「刷り込み」も一層激しくなります。

本来の自分の良さは置き去りにされるのです。

 

いつしか他人を意識して比較したり、自分なんてと過小評価するなど、できない面だけにフォーカスするようになると生きづらくなるのは当然です。(優秀な人の気持ちはわかりませんが・・・)

 

これを批判しているわけではありません。

少なからずこの世は、そんなネガティブな要素が存在するところなのだそうです。

 

時々試されているんだなとも感じたりします。

 

生きるとは どんな感情なのか知るための、旅なのですから。

「ただ在る」という意味がわかるようになるまでの。 

 

 

歳を重ねるにつれて図太い神経の持ち主になりましたが、小さな頃は大人しくて、ちょっとしたことにもすぐビービー泣くような子だったため、私は親からも先生から「内向的で気が弱すぎる」とよく言われていました。

 

早生まれのせいか、集団生活にデビューしたときは周りの子たちの体が大きかったので、威圧感を感じて怖かったように記憶します。

 

小学校低学年ではその性格から軽いいじめにもあったこともありました。校庭の隅っこで一人、皆が楽しそうに遊ぶのを目で追っていた自分をいまだに覚えています。

 

両親には愛情たっぷりに育ててもらいました。本当に感謝しています。

 

当時の母親には悪気はなかったのですが、泣き虫をよく嘆かれて悲しい思いをしたことがありました。

 

 

子供心にそれを真に受けて、自分は「だめな子なんだ」と小学校高学年くらいまでそう思い込んでいたのです。

 

 

それが一生の恩師といえる先生と出会い、自分の「できる面」を手放しで、愛情こめてほめてもらったことで「自分もやればできるんだ」と自信を取り戻すことができるようになったのです。

 

仲良しの友達もでき、だんだん性格も明るくなっていました。

以前の自分が信じられないほど変わったのです。

 

この時の自己改革のおかげで、なんとかダメ人間から脱出できたような気がします。

この恩師を想うと今でも涙がこみあげるほど感謝の念にたえません。

 

ですが今、スピリチュアル的に考えてみると、私の中の「見えない何か」がこの恩師の姿に成り代って、目覚めさせてくれたように思うのです。

「お前の描いたシナリオは、そんな筋書きでないからそろそろ方向転換しろ」と。

 

生まれる前に、人はおおよその自分の人生の台本を考えるのだといいます。自分が繰り返してきた転生の中でいまだ味わったことのない体験ができる人生の筋書きをです。

 

その中にはソウルメイトと相談して決めることもあるとか。

 

だから今いる身内や、縁のある人とのつきあいはかけがえのないもの。

「来世で魂の訓練を一緒にしようね」と誓いあった仲なのですから。

どんな縁でもその人との縁をないがしろにしていけません。

自分にとってマイナスに思えるような関係の人も、何かしらの成長をもたらしてくれるために存在してくれているのです。

 

私は「袖振り合うも他生の縁」という言葉の深みについてよく考えるのですが、それはそのようなことも意識してのことです。

 

 

 たとえばいじめられたことも、体験しないとわからないので、それも自分の今世での筋書きに入っていたのだと思っています。

意地悪だったあの子はあえて嫌われ役を演じてくれてたのだ、という風に。

 

 

 

さて、さきほどのように他人の言動だけでなく、何かのきっかけで、自分が急に変わって成長したという経験は誰にもあるかと思いますが、とくに大人の一言が子供に与える影響ははかりしれないものです。

 

 

子供は遺伝的には自分の子供であるけれど、スピリチュアル的に言えば別個の崇高な存在だと言います。

魂のレベルで次元的には大人より格上な子もいるのです。

 

だから小さい子供だから無力だと決めつけてはいけない、もちろん、子供だけでなく大人も含めて全ての人も同じです。

 

全ての人間は存在価値があり、何をしようと無条件で愛されている存在なのです。

 

何のためにこの世に生を受け、何のためにこの世を去るのか、その後どこへ行くのか。

人というのは転生を繰り返すらしいのですが、その回数が数回の人もいれば何万回目という人もいて、共通していえるのは皆、「この世で人生ゲームを楽しみたいから」生まれてくるのだそうです。

 

 そして生きる目的は単純かつ明快で

「だだ生きる」ということだと。

 難しいことは何もありません。

 

 

「星占いをみてくれる人がいる 」

 

①の自分の死ぬ歳を聞かされたという話に戻ります。

 

人の生きざまと死にざまを目の当たりにする聖地バラナシからニューデリーに戻るまでは、まさかそんな経験をするとは思いもしませんでした。

 

 

「きつねに包まれる」とはまさしくそんな感じ。

 

現地のインド人を介して、デリーで占い師を知ってるという人物があらわれ、会わせてもらうことになったのです。

 

 小さな部屋で、ヨガの結跏趺坐の形でその占い師と向き合いました。

 

 

ヨギから発せられたセリフは驚愕の一言に尽きたのです。

 

なぜ目の前にいるこの人物が、名前さえも告げていない状態にもかかわらず、今日初めて会ったばかりの私のフルネーム、生年月日を知っているのか。

 

 

最初は、この人物を「星占いをみてくれるヨギだ」と私に紹介したインド人が、こっそり教えたのだと思いました。

 

 

それにしても、フルネームは教えてないはず、いや勝手にパスポートを盗み見されたのかもしれない・・・。

 

 

そんな疑問を制するかのように、そのヨギは矢継ぎ早に、私の住所、どこからきたのか、前の仕事・今の仕事、家族の名前、過去に私と関わったことのある人物の名前を、一字一句間違いなく言い当てました。

 

そのうえ、近々出逢うことになっている男性の名前まで予言したのです。

 

もしこのページを読んでいる人がいるとしたらきっと、私が作り話をしているに違いないと思うでしょう。

 

 

私自身も信じられなかったのですから当然です。

 

 

これに関してはスピリチュアルのことをずっと思索し続けている私も、今だに考えれば考えるほど混乱するのですが、まやかしでないことはまぎれもない事実なのです。

それとも言葉どおり、ただきつねに包まれただけだったのか?

 

 

このあたりが、「人生は自作自演の映画」ということに結びつくのかもしれないのです。

「こんな神秘体験をしてみたい」という自分の中にあった秘めた願望が形をとって現われたのかと考え始めています。

 

書くことで答えが自然にみつかるかもしれないなどと思っていましたが、自分にとって数年越しの「宿題」でありづづけるかもしれません。

 

いまだに正解が思い浮かばないので、書くのを途中でやめるかもしれません。

一生わからないのでしょうか。できるなら正解を見つけたいのですが。

 

だんだん支離滅裂になってきました。

 

本当は自分がこの世を去ったあとに残された家族やソウルメイトに「目に見えない大切な何か」のこと、自分は今どこにいるのかを残したいと思って、これを書き始めたのですが・・・。