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私的空間

DVDのタイトルは『私』 自分への覚書

あるがままということ

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これは自分へのリマインダーです。

 

 

2016年の秋に変革が起こると言ったバシャール。

10月に行われたセッションでは、トランプのことは現段階ではまだ何も言えないと謎めいたメッセージを残したようです。

 

変革が起こったら自分も変わるのかと思うところですが、なんとなくこれまでとそう変わることもないような気がします。

 

なぜかそう思うのかはあとで書いています。

 

 

それにしてもバシャールの言うように、日々観念が私を騙そうとして、打ち負かされそうになります。

騙されるとは?

物心ついた頃から心に染み付いた、刻まれた負の感情は容赦なく襲いかかってきます。それは思考の癖のようなもの。

 

そしてそもそも、その発想自体が間違っていることを思い出すのです。「在る」とはどういうことなのかと。

 

 

「こうあるべきだ」

「嫌な思いはしたくない」
「何々でなければならない」
「これは正しくて、あれは誤りだ」
「この方が得をする」
「失敗はしたくない」

 

判断基準をすぐそんな風に作って、自分自身を制限してしまっているのです。

 

「在る」とは、価値判断基準の一切ないことだと思い出さなくてはいけません。一番してはいけないのが自己否定。

なぜなら自分を否定することは、本当の自分まで否定することになるからです。本当の自分とは完璧で溢れるような愛そのもの。自分はその意味で、愛される価値が十分過ぎるほど、有り余る存在だということを忘れてはいけないということです。

 

宇宙で起こることはすべて、完璧に起こるべくして起こっている。

すべてに完璧さを見るなら
-あなたが賛成できることばかりでなく、
(とりわけ)賛成できないことでも完璧だと考えるなら-
悟りを開いたことになる。
悟りとは、「ありのまま」を批判せずに受け入れることから始まる。

「神との対話」ニール・ドナルドウォルシュ

 

ある条件のもとで、欠点、短所だと信じて疑わなかったことが、実は条件が変われば長所にもなり得ます。

観察者は自分なので、自分を内面から変えていくというバシャールの鏡の法則が教えていると、私はそう解釈しています。

目に映っているのは観察者としての見ているほかならぬ自分が投影した映画なのです。人生は自作自演のDVDだとバシャールは言いました。

 

もし仮に目の前の出来事が不本意なものであったとしても、物事はなるようにしかならない、すべてはあるべくして起こっているから。「なぜこんなふうなんだ」と嘆いても意味がなく、中立でいなければならないのです。

ただ「在る」のみ。価値判断は一切するべきでないのです。

 

 

光と闇、美と醜、正義と悪、 これら全ては前があるから、後ろがあるように ふとした拍子に変化してしまうもので、それは本当に一瞬で変貌することもあると思います。人はこの相反する2つ感情を同時に味わうことはできません。

 

人間関係においては特にそうです。だから人の良い側面を見るだけで自分自身も幸せになれる。

人だけでなく、すべての物事出来事に対しても同じだとわかってきました。このことを知って実践するようになってから、人生が劇的に変わり始めました。世の中に陽が差してきた感じです。

 

 

あるがままの自分というときの「あるがまま」には、二通りの解釈があります。

 

悟る前の現状の嫌な面や辛さを感じる自分と、そして悟った後の自分です。

 

多くの人は悟るとは、今までと違った優れた尊い存在になることと勘違いしていますが、決してそうではないということです。

 

悟る前も悟った後も自分は何も変わっていないことを悟ったあと、気がつくそうです。

 

「悟ろう」と思っている間は、決して悟ることができないと言います。

山川氏は「悟ってもも悟らなくてもいい」と言いいました。解釈が難しく、一見逆説的にも思えますが、それに気がつかなければ一生悟れないということです。

 

何かができるようになるとか、生き方や考えを変えるというようなことではなく、何も否定しなくなったありのままの自分でいること、それが在るということなのかもしれません。
「あるがままの自分を愛するということ」は嫌な面良い面ひっくるめて受け入れるということです。

 

 

悟ったら人としての感情がなくなるか、という疑問もうまれます。

 

菩提樹の下「ここには苦しみはないのだよ」悟りを開いた仏陀はそう語りました。

 

答えはノーです。

たとえ悟ったとしても、悲しみも苦しみも心の痛みも辛さも、そのままあるそうです。

ありのままの自分を受け入れるだけなので、ただ自然になります。

辛かったり、腹が立ったり、悲しいのにそれを認めなかったり、怒りをこらえたりしなくてもよいのです。

あるがままにまかせればいいということです。

それにとらわれないことが大切だと思います。

 

感情とは、出来事をきっかけに生じるものです。自分が何かを考える以上、「感情」は切り離せないのです。

 

人として生まれてきた所以ですが、自分の考えに執着していなければ、それは自然の感情としてすぐに消えるのです。開放するのです。

 

ヒックス夫妻の「引き寄せの法則」では、良い気分になれる方へと転換するテクニックを教えています。

 

嫌な気分になっても転換することで一瞬にして良い気分へと自分の感情を持っていくことができるのです。心の持ちよう次第で、地獄から天国へ行くことも可能ということです。

 

「引き寄せの法則」のエイブラハムは「幸せのヴォルテックス」に入ることに例えました。川の流れに逆らわず、下流に向かってオールをゆっくり漕だけでいい、間違っても上流に行こうとするな。

抵抗するばかりの時は、何事もなし得なかった。偶然成功したように思えたことも一時的なもので終わった気がします。

 

本当の意味での成功を理解などしていなかったから。やっと気づき始めました、成功も失敗もただ「在る」。すべては中立でニュートラル。

 

 

ある意識レベルに達したら、悟ったことになりすべての感情から開放されると勘違いもしていました。

 

悟っても人としての感情はあるけれど、悲しみや怒りに振り回されることはなく、そこから自由になるべきだということです。

心の痛みをもう少し味わいたいと思えばそれを味わい、この幸せや喜びの中にいたいと思えば、それをします。私はどちらでも選べるということ。

 

究極的に言えば喜びも悲しみも紙一重。表裏一体。

ものごとはただ「在る」のみ。

これを思い出すようにしたい。

 

人間には生きている限り、迷いがついて回るものです。
生きるということは、さまざまな選択の連続ですから、不断に迷いが起こることは避けられません。
私もしょっちゅう迷っていますよ。

しかしですね、古い仏典を見ますと、
悟りを開いた後のお釈迦様に対してさえ、悪魔は何やかやと誘惑を続けていたとかいてあるのです。
 

一般には、お釈迦様はすべての誘惑を断ち切って悟りを開いたと思われがちですけど、
どうもそうではないらしい。
むしろ、一生の間、こころを悩ますこともあったようなのですが、
日々の暮らしにおいて、迷いながらも、絶えず反省をし、努力を続けるなかにこそ、
悟りはあるということなのではないでしょうか。

 

仏教・インド思想の世界的権威中村元氏

「生老病死の旅路」

 

お釈迦様でも誘惑が続いていたのなら、このちっぽけなとるにたりない自分が迷わないはずがない、騙されないはずがないなと、フッと笑えてきました。

 

自分の原動力であり、迷ったり苦しくなったら、どこからともなく、ささやきかけてくれる心の声に今日も感謝して。