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私的空間

DVDのタイトルは『私』 自分への覚書

メメントモリ⑥知覚の扉

人生は自作自演の映画

 

この日記は「人生は自作自演の映画と同じである」というスピリチュアル的な観点で「メメントモリ」=死を想えをテーマに過去の自分振り返って書いているものです。

 

 

人には色々な顔があると思います。その人がどんなことを考えているかはその人にしかわからない。

 

一点のくもりがないほど清廉潔白で無私無欲になれるのなら、人として「生」を受ける必要はないのです。

 

魂に刻む「感情」を経験するという単純な目的のためだけに、人が人としてこの世に生まれてくるとのこと。

何もかも自分で引き寄せているそうです。

 

そういった意味で、いまの人生状況は、過去に自分が蒔いた種が実った結果で、シナリオが不満なら自分で変更できると言われています。

 

それでも「人生ゲーム」という映画で主人公役を夢中で演じている最中は、すっかりそのことを忘れるようにできているようだと、過去を振りかえるようになった今、しばしば思うようになりました。

 

 

 

ドアーズのジム・モリソンの衝撃的・情熱的・創造的な詩を朗読するように魂を歌い上げるロックに心酔した時期は自由で奔放な恋愛や、少々不良っぽい生き方に憧れてもいました。

 

 

職業柄「ナイスでいい人」でいることの息苦しさ。

外国暮らしで気心しれた同期が次々に辞めていったあとの孤独感。

体力的にだけでなく、メンタルでもタフであることが要求されたヘビーデューティ。

 

そんな重圧が異国の地で「もっと自由でいたい」という欲求を暴走させたのかもしれません。

 

 

客室乗務員をしているというだけで経験できた、普通のOLしているのと比べて百倍くらいあった出逢いの数々。

 

女は男を条件つきで選ぶというけれど、それは男だって同じ。

 

どこへいってもちやほやされるので「モテる」と勘違いしてしまう人が多いのですが、言い寄ってくる男性で、自分の本質を見ようとする人などほとんどいませんでした。要領よくしていれば条件のいい人などたくさんいたのにです。

 

客室乗務員などといっても、看板を下げたらそのへんの人にしかすぎません。それはその職業についてた人の誰もが、寿退社以外の退職後に悟る現実なのですが。

 

 

同期・先輩の紹介だからと、見掛け倒しの人たちにちょっとおつきあいしただけ。自分のステータスをひけらかす人が多いことに吐き気すらさえ感じていました。

 

これだけチャンスがあるのに、なぜ一人として想いを寄せられるような人がいないのかとうんざりしたものですが、今から思えばぜいたくな話です。

 

いきがっている反面、心の中では寄り添ってくれる誰かをずっと求めていました。願望というものは、自作自演の筋書きの映画なら簡単に叶えられるものです。

 

私による「自作自演の恋愛映画」はそんな頃、予期せぬ形で始まりました。

 

女同士の勘というのは鋭く、恋愛すると女は変わるとよくいわれます。客室乗務員の訓練中から新人時代はストレスもあり、少しふっくらしていたのですが、「あの子急に痩せてキレイになったわね。」などと周囲に噂されはじめたとき、同時進行のふたつの恋愛ゲームに身を寄せていた自分がいました。

 

 

誰にも干渉されない、自由奔放に楽しんだ若き時代の愛の日々は、オフになるとただ開放的になって、夜通しでかけてはバーボンと音楽と恋人と過ごす時間に明け暮れたものです。

  

相手の方の想いが強いときの恋愛関係で、自分が優位にたつときのある種の残酷さが、それでも会ってほしいという相手にとって悪いことはしてないという錯覚に陥らせたのです。

 

自由恋愛であるけれど、例えていうなら不倫のような感覚といったところでしょうか。一人は知らない、もう一人は知っていて自分のもとへきてくれるのを待つといった人。 鉢合わせした時の気まずさも経験したこともあります。

 

自業自得とはまさにこのこと、その後きっちりしっぺ返しをくらったのは当然の報いと成り行きです。

 

本当の愛に気づいてその人の元へ行こうとしたときはすでに遅しで、別の女性への心変わりと別れを告げられたのです。

 

そのときはじめて思い知ったのです。

自分の愛する人が他の誰かといることへの、激情にも似た嫉妬と心の痛みをです。それまでわからずにいた自分の傲慢さにやっと気づくことができました。

 

人間関係はうまくバランスがとれているようです。それでも悲喜こもごもの「業」というのものは、実際に経験して味わってみなければどんな感情なのかはわからないのです。振り返ってみれば、愚かなただの恋愛ごっこでした。

 

苦痛という名の業の意味は、わざわざ聖なる河ガンジスまで捨てに行かなくても 、「感情を知るための自作自演の映画」だったに過ぎず、悲劇のヒロインを演じていただけだったということです。

 

 

悲しみも憎しみも愛も何もない仮想の世界には、一切はただ「在る」だけです。常にニュートラルな物の見方があるのみ。

何故生きる。摩訶不思議なこの世の普遍的事実の根幹の正体は何なのか。その深淵な問いかけに対する答えは「在る」それに尽きるのだと思います。

 

 

さてその頃のガラスの破片がつき刺さったような傷ついた心に、ジム・モリソンのロックは自分に寄り添い、一緒に涙してくれました。

崇拝するあまり、パリのお墓へも行ったことさえある、今でも心の中の恋人であり続けるアーティストです。

 

 知覚の扉・ドアーズのジムモリソン

 

ジム・モリソンは、ロック史上最もカリスマ性のあるミュージシャンのひとりと言われている、27歳の若さで夭折したアーティストです。ドアーズのボーカリストとして一世を風靡した、神秘的で少年のようなバリトンボイスを持った「希代の詩人」としても知られています。

 

映画『地獄の黙示録』のエンディングにもジム・モリソンのナンバーが流れたことで有名です。

 

ジム・モリソンは ニーチェ・サルトル・ランボーを愛読し「神」「創造」などの詩人でもあったといいます。

 

 

ジム・モリソンの名言

 

人は苦痛よりも死を恐れる。

死を恐れるなんておかしなことだ。

死ぬことよりも、生きることのほうが痛みを伴う。

死の瞬間には、苦痛は終わっている。

 

 

If the doors of perception were cleansed,
everything would appear to man as it truly is, infinite.

 

「知覚の扉が洗い清められるとき
すべてはありのままの姿で現れるだろう、果てしなく」

 


「ドアーズ」という名前はジム・モリソンの閃きにより、ウィリアム・ブレイクのこの詩の一説からつけられました。

 

 

「世の中には既知のものと未知のものとがある、そして、その間には扉(ドアーズ)があるのさ」と。

 

 

ドアーズというバンド名に隠されたその意味をどれだけのモリソン信奉者が知っているのでしょうか。

 

オリバー・ストーン監督の映画『ドアーズ』の最初の衝撃的なシーンにあるのですが、彼は幼い頃、砂漠地帯でインディアンの交通事故死に遭遇します。

 

子供のジム・モリソンがその亡骸を車の中から目で追い続けるところから始まる映画です。

 

 

いつかその日が来ることはわかっていながら、日常を普通に生きていると「死」というものは遠ざけられているものです。

 

この掴みようのない「死」に幼少の頃から真摯に向き合って「生」を全うした人がジム・モリソンのような気がします。

 

「死」に魅入れられ、「死」を友達としながら、「今この瞬間の生」を全うした人生だったのかもしれません。

 

 「メメントモリ」を意識しすぎた一生だったのではないでしょうか。

 

一連の流れを「死」という終わりから考えると、始まりも終わりも同じことだと気づくようになります。

 

「死」は恐れるようなものでありません。

ジム・モリソンが語った通りです。

 

そう、死は友達なんだよ・・・